『南の島』

第五話・ダブルブッキング

「おとといはありがとう。とっても楽しかったわ」
 火曜日の午後、ゼミで顔を合わせた茜は、俺の耳元でそう呟いて通り過ぎて行った。少し日焼けの残る首筋が、おとといのサザンビーチが暑かったことを俺に思い出させた。
 何食わぬ顔をして、茜は俺の隣に座った。しかもいい香りをさせて。これはシャネルのクリスタルだ。それにヘアスタイルも少し変わったような。下向きの大人しいポニーテールになっている。それにファッションが少し大人びている。黒でラッフルの付いたショルダーカットのラウンドネックTシャツに黒のタイトスカート、その上に麻で白のジャケットを着こなしていた。
 何かが違う、と俺は悟った。
 授業が終わっても茜はまだ俺の横に座っていた。そして茜は、おもむろに俺の腕を掴ん出言った。
「ねぇ、週末も峻クンとデートしたいの。ダメ?」
 俺は腕を掴まれたのとデート発言で、カッと茜を睨んだ。それを見た茜はたじろいだ。
「ごめんなさい。無理にとは言わないけど」
 急に茜はしおらしくなって、掴んでいた俺の腕を離した。モジモジしている茜が愛しくて、つい彼女の手を握った。手を握られてハッとした茜は俺の顔を見た。俺は茜と視線を合わせた。
「いいよ。でも、今度は迎えに来てよ」
 俺は思いっ切り我がままを言ってみた。
「え、デートしてくれるの!……あ、でも、あたし、車を持ってないから……」
 嬉しそうな反面、困った顔の茜。どうしていいのか、俺の顔色を窺っている。
「じゃあ、俺んちに朝八時に来てよ。そうすれば何とかなるから」
 俺は非常に意味深な発言をした。
「何とかなる? ホントに?」
 茜は訊き返してきた。
「あぁ、何とかね」
 俺は曖昧に答えた。茜は不思議そうな顔をしていたが、それよりもデートの方を優先したらしく、急ににこやかになってこう言った。
「その代わりにあたし、またお弁当を作って持っていくわね」
「そう。じゃ、たくさん作ってきて」
 嬉しそうに話す茜に、意味深な発言を繰り返す俺。遂に茜が訊いた。
「たくさんってどういうことよ? そんなにたくさん必要なの?」
「あぁ、俺がたくさん食べるからさ」
 凄いにこやかな笑顔で、俺は茜に答えた。
「……うん、分かった」
 茜は腑に落ちない感じだったが、渋々返事をしてくれた。
「じゃ、週末、待ってるから」
 俺はそう言い残して、茜の横から立ち去った。

 茜とのこの会話から遡ること一日前、要するに昨日の月曜日の朝に、俺は梢に待ち伏せされた。俺が朝の学生会館から出てきたところで、梢が俺の行く手を塞いだのだ。
「お・は・よ。峻クン」
 不敵な笑みを湛えて俺をジッと見据える梢。
「おはよう、梢。今日はどうしたんだ?」
 俺はありふれた朝の挨拶とありふれた問い掛けをしただけなのに、梢は凄い剣幕で俺に訊いてきた。
「昨日、茜とデートしたんですってね!」
 俺はそのことかという顔をした。だが、それが梢には気に入らなかったらしい。
「そうなのね! 否定しない訳ね?」
 詰問してくる梢をかわすのは無理だと俺は悟った。
「あぁ、そうだよ。よく知ってるねぇ」
 俺の返答に梢の顔が引きつっていた。
「そーなの。それで楽しかったという訳ね」
 凄い嫌味だなと思いつつ、俺も嫌味で返した。
「あぁ、楽しかったけど」
 梢は一度、俺から視線を外して大きく溜息をついてから、また俺を見据えた。
「私の方がアドバンテージがあるんじゃないかしら?」
 おぉ、そう来たかと俺は思った。
「さぁ、どうかな」
 俺の言葉は相当、梢にに来ているはずだが。
「どうして? どうして、そうなの?」
 思った通り、梢の厳しい顔付きが一変して崩れ去った。
「私は貴方が好きなのよ。分かってないの?」
 俺はその問いには答えない。梢は額に手を当て考え込み、今にも泣き崩れそうだった。
「週末、時間があるか?」
 俺は梢に尋ねた。梢はコクリとうなづいた。
「朝八時に俺んちに来てくれ。デートしよう」
 チラッと梢は俺を見た。そしてうなづいた。
「機嫌を直してくれよ」
 そう言うと梢は急に泣き出した。俺は失敗したと思った。慰めようと言葉を掛けようとした時、梢はしゃくり上げながら喋り始めた。
「嬉しいっ! デートしてくれるのねっ!」
 俺はフッと溜息をついた。
「あぁ、そうさ」
 梢の中の緊張が途切れたらしく、その場でしゃがみ込んでしまった。
 俺は梢の肩に手を置いた。
「じゃ、週末、待ってるから」
 俺はそう言い残して、しゃがみこんでいる梢の場所から立ち去った。
 
Copyright 2012 Dan Qei All rights reserved.